日暮ニッチな部屋

Tenbellstaが贈る、趣味と思想の物語。”ひぼにっち”でも”にちぼにっち”でも”ひぐらしにっち”でも”にっぽにっち”でもお好きにどうぞ

万年筆の良さ知る。それは人生の”○○○”を見出すことなり…

万年筆とはなんだろう?

たかが字を書くもの、されど光り輝くもの。

世の移り変わりによって”一般的な筆記具”としての座を譲り、道楽や人のステータスに様変わりしたもの。

多様にあったこれまで発展は今や画一的なものとなし、形も色も似たり寄ったり極まったり。今後は全盛期以上の輝きや発展はないのかもしれない。

 

ひとえに。

「利便性に、需要に、時代に見合わなかった。」

そう言ってしまえばどれだけ気楽なものか。

今尚、残滓が織りなすその輝きは我々に何を見せるのだろうか?
少し考えたい。

万年筆。それは尖り

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万年筆には他の筆記具にはない大きな特徴がある。

その美しいペン先(ニブ)である。

形は様々、古くから変わらぬ形状に見えるかもしれないがそれは違う。

メーカー独自の技術。力学。素材。

主に金色に輝く姿は”金ペン”にふさわしい。

 

伝統的な五角形の形状だけでなく、

首軸から延びる流曲線が美しい「軸一体型ニブ」、

ペン先を大きく隠した「フーデッドニブ」。

収納に適した「小型ニブ」、

どこの面でも書ける「三叉ニブ」

などなど、メーカー独自のものを含めれば金に輝こうがかなかろうが

何より、”尖った”ものを持っている。

万年筆。それは現象

シャープなら黒鉛を削り、ボールなら回転でインクを吐き出す。

しかし万年筆は違う。

インクを流すのである。

似た機構を持つ”つけペン”はこれの前段階と言っていいのかもしれない。

(無論、だからと言って”つけペン”を卑下しているのではない)

毛細管現象やら軸内気圧の変化やら割と忙しい話だが、なんとも自然である。

万年筆はインクを溜め、流し、文字とする。

人はインクを入れ、やや振り、文字を書く。

長い歴史があるにせよ、いつぞやも変わらぬ機構を持って、

いつまでも変わらない地球に縛られた”現象”を内包し続けている。

万年筆。それは色

万年筆は古来より”ブルーブラック”がメインだと決まっている。

だが今はそんな古い常識は通用しない。

色々な色があるからである。

これは幸か不幸か、万年筆が一般的でなくかつ趣味としての側面で受け入れられたからこその変貌であるだろう。

今や多様化の時代。他人とは無意識で違うものを希求する。

そんな浮世の在り様でも受け入れられたのは、

何よりも万年筆に色があったからであろう。

万年筆。それは愛。

こうして書き連ねている傍らに万年筆置いてある。

特に書く当てもないが、美しく転がっている。

なぜ今や不要な万年筆を買ってまで使うのか?

ここは単純に「焦がれたから」と言いたい。

 

その書き味の試したさに。

何物にも代え難い上品さに。

書くという悦びを味わうために。

 

即ち筆記者から万年筆への”愛”である。

ただ私のここで書く”愛”は、100円で買えてしまう万年筆に正直ない。

好むならあるかもしれないが、少なくとも愛着を持って憧れて買う代物でないため、ありえないと言いたい。

愛を含むには余りにも安すぎた。

万年筆。即ち”ゆとり”

私は”ゆとり世代”と言われ差別されるが、そのことではない。

 

ここで言うのは本来の意味合いである。

より便利な存在によって搔き消されてしまっていた「キャップを外す動作」、

「インクを補充する作業」、「末永くモノを使うという価値観」。

こうした事にどこかしら時間的で精神的な余裕が見えてくるのではないだろうか?

 

万年筆が廃れ存在が消えかけた時、ペン先は売られた。

”金”で出来ているためそれなりの価値があったからだった。

私が個人文具店に行って聞いたところ「売れないから換金した」と告げられ、悲しくなったのを思い出す。(どこでとは言えないが)

それでも今は万年筆が再認識され、また魅せられた人が増えているように感じている。

私もその一人であることは付け加えておきたい。

そして最後に言わせてほしい。

 

万年筆の良さを知る。それは人生の”ゆとり”を見出すことであると。